検索アイコン

サイト内検索

商品内検索

第512号 2000(H12).11発行

PDF版はこちら 第512号 2000(H12).11発行

 

 

歴史の中の肥料-グアノ物語2

京都大学名誉教授
高橋 英一

19世紀前半の合衆国の農業事情

 1783年イギリスとの平和条約で正式に独立を果たした当時の合衆国の領土は,東西は大西洋岸からミシシッピ一川まで,南北はブロリダの北から五大湖までの地域であったが,19世紀に入って急速な膨張を遂げた(図2参照)。

 すなわち1803年にはフランスよりルイジアナ(現在のルイジアナを含む13州の地域)を買収し,一挙に二倍の広さになった*。ついで1819年にはスペインよりフロリダを買収,1845年にはメキシコから独立したテキサス(現在のテキサスとニューメキシコの二州に相当)を一方的に併合,(それがもとで1845年にはメキシコと戦争になる),また1846年にはイギリスと協定を結んでそれまでイギリスと共有していたオレゴン(現在のオレゴン,ワシントン,アイダホの三州に相当)を併合,さらにメキシコ戦の勝利によって1848年にはカリフオルニア(現在のカリフオルニア,ネバタ,ユタ,アリゾナの四州に相当)をメキシコから割譲させ,50年足らずの間に合衆国の領土は一挙に独立当時の領土の三倍になった。

 この獲得した広大な処女地を開拓すべく,「マニフエスト・デステイニイ(明白な運命)」*をスローガンに西部への進出がはじまった。これによって大量の農産物が供給されるようになった。前に述べたように南部(カロライナ,ジョージア)やニューイングランドの農業は,地力の消耗のため収量は低下の一途を辿っていたが,そのうえ新たに開拓された西部からもたらされた多量の農産物による,価格低下というダブルパンチをうけた。

 収穫によって低下した地力を回復するためには有効な肥料の投入が必要である。そのようなとき従来の厩肥の数十倍も効き目があるというグアノが現れたのであった。1844年から1851年の間に合衆国ヘ66,000トンのグアノが輸出されたといわれる。卸売り価格はトン当たり平均50ドルであったが,需要増大により価格は上昇し1850年春の需要期には76ドルになった。

 1850年の経済状況は,誂えの洋服一着が1ドル,200エーカーの土地所有の中規模農家の年収は約690ドル,大部分を占めていた100エーカー未満の小規模農家の年収は200ドル以下であった。したがって例えば20エーカーの土地に2トン(エーカー当たり100キログラム)のグアノを施用するには年収の半分近くをさかねばならない。それは多くの農家にとっては不可能なことであり,彼らはもっと安くグアノを入手できるように議会に圧力を加えた。

 当時合衆国では10人の中8人は農業で生活しており,農業生産は国民総生産の四分の三を占めていた。議員の中にも農場を経営しているものは少なからずおり,グアノの入手を容易にすることの重要性はよく認識していた。1847年,議会はそれまでグアノに掛けていた20パーセントの関税を撤廃した。1851年,大統領に就任したFillmoreもグアノが適正な価格で輸入できるように努力すると言明した。しかしその後も価格は上昇を続けた。その原因はGibbs商会の独占のせいであると考えられていた。

Lobos島事件-グアノ戦争のはじまり

 Alfred Bensonというブルックリンで海運業を営む実業家がいた。1841年Tyler大統領の政府は,国務長官であったDaniel Webster*の紹介で”Bensonに近づいた。それはオレゴンへの航路を開くにあたって,一航海当たり50人の乗客を無料で運ばせるためであった(目的は居住者を増やしてイギリスに対する発言権を強化することにあった*)。そしてその代償に,太平洋地域への政府の補給品のすべてを,1バレル当たり3ドルの船賃で運ぶ権利を内密に与えた。この取引によってBensonは大儲けをした。

 1851年,Bensonは無人のLobos島に大量の良質のグアノがあるとの情報を得た。Lobos島はペルーの沖合い24マイルにある海鳥糞で覆われた一平方マイルにも満たない小島で,グアノ埋蔵量は80万トンに上ると見積もられていた。(図3)ペル一政府はChinca島のグアノが尽きた時に備えて,1842年に外国船の立ち入りを公式に禁止した(このことをBensonは知っていなかった)。

 Bensonはカリフオルニアの金鉱採掘目当ての沢山の移住者をサンフランシスコヘ運んだあと,東部ヘ帰る空の船をグアノで満たしたいと考えた(1848年にカリフオルニアで金鉱が発見され,ゴールドラッシュが始まっていた)。

 彼は自分の持ち船の船長のJames Jewettに,念のため実地調査を依頼した。Jewettは翌1852年春に戻ったが,そのときまでにBensonはイギリスにもLobos島のグアノの採掘を望んでいる実業家がいるとの情報を得ていた(イギリス政府は合衆国と異なり,Lobos島の所有権はペルーにあるとの見解をとり続けた)。

 Bensonは政府の反対がなければ,早急にグアノ採掘の船団をLobos島ヘ送りたいと考え,JewettにWebsterと接触するように指示した。1852年6月2日,JewettはWebsterに手紙を書き,Lobos島からグアノを採掘することの可否について問い合わせた。彼は手紙の中でLobos島はどこの国にも属していないと自分は聞いているが,もしなんらかの条約があるのなら,それを破るようなことはしたくない旨を述べている。

 Websterはグアノ採掘者を海軍で保護することは国益にかなうと考え,Jewettに対して「Lobos島は多くの国が認めている領海3マイルの外にあり,またペルーが領有しているとも聞いていない。したがってグアノ採掘の目的でこの島を訪れる合衆国民を保護することは,政府の義務と考える。」旨の手紙を書いた。この内容はあらかじめホワイトハウスで検討されており,その草稿の欄外には,6月5日M. F. (Millard Fillmore)承認の書き込みがあった。

 この手紙の中でWebsterは,海軍長官に軍艦をLobos島に派遣する命令をすでに下したことをJewettに知らせるとともに,この手紙は当分の間内密にしておく必要がある旨の追伸を自筆で記した。この自筆の追伸は後になって政治問題を引き起こすことになる。

 Jewettからの知らせを受けたBensonは直ちに20万トンのグアノを輸入する計画を立てた。彼はそれを現行価格より4割安い,トン35ドルで売るつもりであった。グアノ採掘費用トン5ドルと運賃トン15ドルを差し引いて,トン当たり15ドル全部で300万ドルの利益になる胸算用であった。

 Bensonは出資者を募ったが,その中には大統領の富裕な友人達やウオール街の実業家が沢山いたという。Bensonは300トンのSarah Chase号に採鉱用具と食糧を積み込み,甲板には一門の大砲を据え付け,武装した40人の乗組員を乗せ,ニューヨクからLobos島ヘ向け出航させた。同時に彼はホノルルの代理人にもう一隻の船を用意し,ハワイの労働者100人を徴募するよう指示した。さらに彼はLobos行きの船を可能な限り借り上げたが,その数は最終的に92隻に上った。

 彼はまた代理人をイギリスに送り,向こう2年の間に10万トンのグアノを卸売り業者に引き渡す契約を結んだ。彼によれば,この事業に全部で100万ドルを費やしたという。

 Websterの意に反して,Lobos島のグアノをとりにゆくアメリカの船を守る約束を政府がしたという情報は,たちまち新聞の知るところとなった。

 ワシントン駐在ペル一代理公使のJ. I. Osma(彼はペルーのBarreda商会のグアノ事業の陰の出資者であった)は新聞の切り抜きを兄弟の外務大臣J .J. Osma(彼も同じグアノ事業の出資者)とBarredaに送って注意をうながした。彼はまた,6月25日にWebsterに書簡を送り,Lobos島に対するペルーの主権を主張するとともに,船主達に法的処置をとることがある旨警告する意向があることを伝えた。

 7月2日,代理公使のOsmaは大統領とWebsterに個別に会い,アメリカ船のペルー領侵犯の報について懸念を表明した。これに対しWebsterはLobosに対するペルーの領有権を合衆国は認めておらず,したがって公海と同様,すべての国民に聞かれている島でグアノを採掘する自国民を,合衆国は妨害から守るであろうと告げた。翌日OsamaはWebsterに手紙を書き,国務長官の意見は極めて重大であり,本国政府に伝える必要があるため正式文書にすることを要求した。

 当時Websterは健康を害し,暑いワシントンを留守にしていたため8月21日まで返事をしなかった。しかしその間に事態は一変した。リマ駐在合衆国公使のRandolph Clayは国務省ヘ手紙を送り,WebsterのJewett宛書簡がペルーの新聞に載った結果,リマで反米騒動が起こり,ペル一議会は秘密会を開いて,必要とあらば軍隊をLobos島に派遣する権限を政府に与えたことを伝えた。

 同じ頃,Jewettは6月5日付けのWebsterからの手紙(Webster自筆の追伸のある手紙)をNew York Heraldに送った(それは8月11日に掲載された)。彼はまたWebsteに手紙(8月16日付け)を送り,ペル一政府の脅しを耳にしているが,自分と友人達が利権を持つ20隻の船はすでにLobos島ヘむけ出航したこと,Webster氏の手紙のコピーをお墨付きとして携えて7月23日に出航したSarah Chase号は武装しており,力による干渉には抵抗する用意があることを知らせた。

 一方Lobos島から安いグアノが入る期待にジャーナリスムは沸き立った。New York Timesは,Websterの海軍力行使の言明によって合衆国の農民は,疲れ果てた土地を回復させる素晴らしい妙薬-カリフオルニアの金よりも貴重な-を適切な値段で間もなく入手できるだろうと報じた。しかしJewett宛のWebsterの追伸は,Jewettとその隠れた共同出資者に莫大な利益を与えるとともに,Webster自身も利益にあずかるのではないかという疑惑を生じた。

 大統領のFillmoreはJewettの手紙が公表されるまで,艦隊に命令が出されていることを知らなかった。また彼はWebsterがJewettに送った手紙の草案に認可を与えたことも忘れていた。しかし事態を重くみた大統領はWebsterに路線の変更を命じ,結局Websterはそれに従った。

 8月21日,ついにWebsterは正式の態度表明を求めていたOsmaに答えた。その中でWebsterは領海の境界を3マイルとする見解に変わりはないが,諸般の事情を考慮してペルーのLobos島占有を認める用意があること,また企業家達がこれらの島に対する利権を行使するために力に訴えるならば,それは私的な戦争行為(private war)であり,自国政府の保護は得られないことも言明した。

 一週間もたたない中にOsmaに対するWebsterの公式回答の内容は新聞に掲載され,船主達は危険がさし迫っていることを知った。WebsterはJewettにも,8月16日付けの手紙にあるようにペルー当局に武力をもって抵抗するなら,それは私的な戦争行為であり,決して政府の支持を得られない旨の通告を行った。Jewettは激怒し,政府の保護を信じたわれわれを見捨てるのかと大統領に抗議した。

 9月8日に至ってはじめてBensonは沈黙を破った。彼は大統領に手紙を送り,われわれは政府の言葉を信じて百万ドル近い投資をしたが,政府はこれを補償すべきであると要求した。大統領はこの手紙をWebsterに回したが,WebsterはBensonに,われわれは最善を尽くした,あとは成り行きに任せるしかないと答えたのみであった。

 9月24日New York Evening Postは,BensonとWebsterはグアノの投機をしていると非難した。これはWebsterを深くきずつけ,彼はその後まもなく亡くなった。

 11月17日新しい国務長官に就任したEdward Everettは,Lobos島に対するペルーの主権を正式に認めた。これに対してペルーの外務大臣Osmaは,「6月5日から8月25日の間にWebsterの言を信じて出航した船は,在ボルチモアおよびニューヨークのペル一政府の荷受け人Barreda商会と再契約の上,Chincaのグアノをトン当たり20ドルで積み込むことを許可する」旨をEverretに確約した。これによって政府間ではLobos事件は一応の決着をみた。

 しかしこの取り決めはBensonから投資回収の望みを奪い去り,彼を破産に追い込んだ。Bensonの「グアノ船団」の多くは契約を放棄して帰国した。残りはペル一政府と再契約し,トン当たり20ドルを現金で支払ってグアノを積み込み帰国したが,Barreda商会は紙幣で19ドルしか支払おうとしなかった。

 船主達は損害の補償を求めてBensonを訴えた。この訴訟の殆どに負けたBensonは国務省と上院に再三救済を請願した。Benson救済法案は上院で何度も論議されたが,1855年最終的に否決された。しかしその過程で,合衆国経済に対するグアノの肥料的価値の重要性を,議員達の胸に深く刻み込んだ。

*1 広大なルイジアナ買収を行ったのは,1801年第3代大統領に就任したThomas Jefferson(1743-1826)であった。独立宣言の起草者であった彼は,独立自営農民こそ共和国存立の担い手と考えていた農本主義者であった。大統領就任演説で彼は,「政策の第一義は農業の奨励であり,商工業はその侍女に過ぎない」と述べている。

*2 「Manifest Destiny」というのは,この広大な北アメリカ大陸に膨張発展し,無明の民を文明の思恵に浴させることこそ,神自ら合衆国人民に課し給うた道義的使命であるという概念で,1845年8月に新聞記者のジョン オサリパンが月刊誌「民主評論」の特集号ではじめて使った言葉。それ以後,この都合のよい言葉は政治家の演説にしばしば登場するようになる。(今津晃著 アメリカ大陸の明暗 河出書房新社1996より)

*3 Daniel Webster(1782-1852)は1816年ボストンに出て弁護士を開業,間もなく合衆国で最も高給取りの弁護士になる。1827年マサチュウセッツから上院に出馬,議会きっての雄弁家として長らく上院を牛耳る。三度(1836,1840および1852年)Whig党(1854年解消し,奴隷制反対の勢力を結集して共和党が成立)の大統領候補の指名を争うも成らず。W. H. Harison,J. Tyler(1841-1843)およびM. Fillmore(1850-1852)三人の大統領の下で国務長官をつとめた。

*4 オレゴン地方は1818年以来,英米両国の共同管理下におかれていたが,移住者の激増に伴い両国間の国境線確定が急務となった。1846年,大統領Porkはイギリスとオレゴン協定を結んで,北緯49度線を国境とすることで決着をつけた。

 

 

水稲の麦間不耕起直播栽培

愛知県農業総合試験場
安城農業技術センター作物研究室
主任研究員 中嶋 泰則

 愛知県農業総合試験場では,1988年に愛知式水稲不耕起播種機を開発した。その後,さらに播種機や栽培法の改良を加えることによって,2000年には県内で不耕起播種機24 台が普及し273ha(うち70%がコシヒカリ)の水田で不耕起直播が作付けされ,今後,飛躍的な普及拡大が見込まれるなど,水稲の低コスト生産に貢献してきた。

 しかし,近年の米麦の急激な価格低下と土地集積の鈍化によって大規模土地利用型農家の収入がさらに減少してきた。これを打開するために,小麦生育中の2月に水稲を不耕起直播する「水稲麦間不耕起直播栽培」の確立によって,土地生産性の向上による収益増を目指してきたところ,その体系化が実現できた。

1.技術の特徴

 愛知式不耕起播種機による水稲麦間不耕起直播には,次のような特徴がある。

(1)小麦生育中の2月中下旬に愛知式不耕起播種機でV字に作溝し水稲を播種するため,小麦への障害がほとんどない(図1)。

(2)水稲播種時に播種同条に水稲の初期生育に有効な肥効調節型肥料のLPSS100を施用する(窒素成分で6~8kg/10a)ことで,入水後の基肥の施用が不要となる。また,この肥料は小麦の生育,収量, 品質に悪影響を及ぼさない。

(3)小麦収穫時にコンバインのわだちや収穫作業による水稲への障害は,水稲が深い位置(播種深度3~4cm)から出芽しており成長点が地中にあることから極めて少ない。

(4)小麦収穫時に,拡散機付きコンバインによって20~40cmに高刈りすることで,水稲への麦わらによるストレスが著しく減少でき苗立ちが安定する。また,入水後は長い切り株に麦わらが阻まれるため,部分的な吹き寄せが無くなる。

(5)小麦の収穫時(愛知県では6月中旬)には水稲の草丈が15cm,本葉が3~4枚出ている(図2)ので,収穫後に移植するより水稲の収穫時期が早くなり収量,品質が安定する(表1)。

(6)水稲の育苗,代かき,施肥等の管理が不要なため小麦収穫や大豆の播種との作業競合が少なくなる。

(7)ほ場の地耐力が大きいため収穫準備のための中干しの必要がなく水管理が容易である。

2.愛知式イネ・ムギ不耕起播種機の構造

 愛知式不耕起播種機は,鍔(つば)付きのそろばん玉状の円盤を回転させて播種溝を作り,そこヘ播種と施肥を行う簡単な仕組みの播種機である。播種溝のかたちは,深さ5cm,開口部2cmのV字型で,鍔(つば)付きのためほ場の条件に関わらず形状は安定している。また,播種・施肥ホッパーから取り付けたガイドパイプは,播種溝をレール代わりに追随するため,種子と肥料が無駄なく溝に落ちる(図3)。ほ場が硬く分げつが直交方向ヘ発達しにくいため,播種溝を20cm間隔とし生育量を確保している。

 覆土は,播種・施肥用のガイドパイプの後ろに取り付けられた覆土チェーンが溝に沿って追随するため,適度な覆土が確保される。

 作業速度は,1~1.5m/秒である。したがって,10a当たり作業時間は市販されている10条(作業幅2.0m)播種機では約15分,13条(作業幅2.6m)播種機の試験機では約10分となり,一日当たりの作業面積は移動時間や種子準備等を考慮しても3~6ha程度は可能である。

3.栽培体系

 図4に示したような栽培体系が確立した。以下に水稲麦間不耕起直播栽培のポイントについて述べる。

(1)前作小麦の栽培

 小麦の栽培は,慣行の耕起播種(散播やドリル播き)で良い。ただし,不耕起播きに比べ水稲の麦間不耕起直播時や小麦収穫時にほ場が乱れやすい。また,水稲の播種深度が浅くなるなど精度がやや劣る。

 一方,不耕起播きでは,完全不耕起ほ場への播種が最も低コストとなるが,前作収穫作業による凹凸や残さによって播種精度が悪化し出芽,苗立ちが不安定となる。このため,「秋季代かき」や5cm程度の「浅耕」を実施し前作残さのすき込みやほ場の均平を図る。

 「秋季代かき」は播種1ヶ月前には実施し排水溝を設置してほ場を乾かし播種作業にそなえる必要がある。水稲の収穫作業との競合が問題となり作業がやや煩雑となるが,小麦だけでなくその後の水稲でも深い位置に播種できるし播種精度が良い。また,水稲播種時にはほ場の乱れが「浅耕」より少なく小麦への障害は小さい。

 「浅耕」は播種直前でも作業が可能であるなど手間がかからない。また,浅耕時に基肥施用が可能となり初期生育が確保しやすい。「秋代かき」に比べ播種位置が浅くなるが覆土が良く降水量が少ない年でも出芽が安定するなど,実際の普及場面では播種前の「浅耕」(1999年播種では不耕起約20ha全部が「浅耕」) が主流になると思われる。

 施肥法は,「秋代かき」では出芽揃い期に,「浅耕」では耕起時に基肥を施用し,追肥,穂肥は慣行と同様にする。水稲の不耕起播種の様な播種同条施肥は,濃度傷害によって出芽苗立ちが不安定となるため適用できない。その他管理は一般慣行に準ずる。

(2)水稲の播種時期と品種選定

 播種適期は小麦の生育を考慮する必要があるが,茎立ちする前までに実施したい。愛知県における播種適期は麦踏み作業時期に当たる2月中旬から3月初旬である。

 供試品種がムギの群落で越冬するヒメトビウンカが媒介する縞葉枯病ウイルスによる発病を防止するためにこの病気の抵抗性品種を採用する必要がある。また,十分な生育を確保するためには早生から中生種が望ましい。

(3)種子予そと播種量

 一般に,直播は育苗に比べ出芽条件が悪いので,出芽苗立ちをいかに安定させるかが最も重要となる。このためには,厳選した発芽力の高い種子を使用する事が前提となるが,消毒剤としてはチウラム水和剤が最も有効であった(図5)。消毒は乾もみあたり0.5%粉衣(必要量を5培程度の水に溶かしてミキサーなどで湿粉衣すると良い)する。播種量は,期待される出芽率を考慮して,8~6kg/10aとする。

(4)施肥法

 水稲麦間不耕起直播でも一般の不耕起直播栽培と同様に,土壌が固いため出芽後根の成長が緩慢になり肥料を表層に施用しても効果が著しく劣る。したがって,施肥の効果を高めるために,播種と同時に播種溝に肥料を施肥することを考案した(図3)。これによって,施肥量を35%軽減する事ができた(表3)。

 このときの肥料は,小麦の収量,品質に悪影響を及ぼさず(表4)水稲の生育を促進する肥料を選定する必要があった。この条件に適合する肥料として,肥効調節型のLPSS100号(窒素単肥で窒素含有率40%)を選定し,施肥量としては6~8kg/10a施用し,穂肥は慣行栽培と同量を5日程度早めに施用することとした。

 さらに,現在LPSS100にLPS120やLPS160を混合した全量基肥について検討中である(図6,表5)。LPS120混合区は収量減が,LPS160混合区は玄米窒素含量の増加が課題となっている。

(5)雑草防除

 水稲不耕起播種一毛作においては,播種後ほ場に入水するまでの乾田期間の雑草防除は,すでに生えている雑草をラウンドアップ液剤で枯らすことができるが,水稲出芽前に小麦が生育しているためこれが散布できない。したがって,春先に発生するタデなどを防除するためにハーモニー水和剤を小麦栽培中に散布する必要がある。

 小麦収穫後はできるだけ早くクリンチャーバス液剤を散布し既存のヒエや広葉雑草を防除する。クリンチャーバス液剤散布3日後に入水し一般慣行栽培で用いられる初中期一発剤を散布する。散布後は移植栽培以上に水漏れに注意して5日間はたん水状態を保ちたい。

(6)水管理

 入水は前述のように,第1回目の除草剤散布後できるだけ早く実施する。水後5日間程度は除草剤の効果を高めるため,水漏れに注意してたん水状態を保つ。深いところで水稲の葉先が水面から出るくらいの深水で管理するほうが除草効果が高まる。

 不耕起ほ場は固いため,早くから落水しなくてもコンバインの走行は容易である。

(7)病害虫防除

 不耕起直播栽培といって特別な病害虫防除は必要なく一般の移植栽培と同様でよい。ただし,この栽培法では,8月下旬以降にイネツトムシやコブノメイガによる葉身の食害が目立つ。このためこれら害虫用の殺虫剤を発生初期の7月下旬~8月上旬に散布する。

4.今後の課題

 水稲麦間不耕起直播栽培をさらに安定化するためには,水稲播種時の肥効調節型肥料の混合による全量施肥栽培技術の確立や乾田期の除草法の改善による効果的な雑草防除法の確立などが重要となる。

 また,愛知県農業総合試験場では,より省力的な二毛作体系を確立するため,水稲・小麦の同時播種栽培に取り組んでいる。11月下旬から12月初旬に水稲と小麦を同時に不耕起播種することによって,2月中旬~3月初旬の水稲播種作業が省略できる。この栽培法を可能とした最も大きな要因は,チラウム水和剤の種子への粉衣によって,水稲の出芽苗立ちが著しく安定したことによるが,この栽培法の確立には,麦間不耕起直播栽培と同様に施肥法と雑草防除法が課題となる。

5.参考文献

*演田千裕(1996)直播栽培の実証的研究,農業技術,51,213-219.

*中嶋泰則(1998)コシヒカリの直播栽培・姫田雅美ら編,農文協,175-192.

*釋一郎(1999)愛知式水稲不耕起播種栽培法,農業技術,54,457-461.

*濱田千裕,中嶋泰則,釋一郎(2000)水稲の不耕起直播栽培技術の開発-水稲麦間不耕起直播における省力二毛作体系の開発-,日作紀,69(別1),102-103.

*中嶋泰則,濱田千裕,釋一郎,池田章弘(2000)水稲の不耕起直播栽培技術の開発-秋代かきと播種同条施肥による水稲麦間不耕起直播の省力安定化-,日作紀,69(別1),104-105.

 

 

地形・地目連鎖系における窒素動態と
窒素流出負荷の低減(2)

静岡県農業試験場 海岸砂地分場
主任研究員 宮地 直道

4.水田・休耕田での水質浄化

 静岡県では長年茶園の広がる台地からの湧水に由来の河川水が,水田の潅漑水として利用されてきた。水田には脱窒により潅漑水中の硝酸態窒素を窒素ガスに変える水質浄化機能がある。脱窒は土壌中の微生物(脱窒菌)が硝酸態窒素を亜硝酸に変え,さらに亜酸化窒素を経て無害な窒素ガスに変えることにより生じる。この脱窒による単位時間あたりの窒素除去量は,実際の水田での観測値やモデル試験の結果から,流入水中の硝酸態窒素濃度が増加するのに比例して大きくなることが知られている1)。また,休耕田にも同様の水質浄化機能(窒素除去能)があることが明らかにされている2)

 一方,水田・休耕田の窒素除去能は立地環境や土壌タイプにより異なる。例えば,地下水位が高く地下浸透量の小さな谷津田の休耕田では冬期間の窒素除去能は低下し,窒素除去能は時間の経過とともに低下する3)。また,黒ボク士で還元層が発達していない乾田では窒素除去能が小さい4)

 これに対し,地下浸透量が大きく還元層が発達した灰色低地土の水田では潅漑水の地下浸透過程での脱窒により顕著な窒素除去が行われる5)。ここでは,静岡県内で茶園排水由来の河川水を潅漑利用している地下浸透水量の小さなグライ低地土と比較的大きな灰色台地土の水田・休耕田での窒素除去能に関する調査結果を紹介する。

4-1)グライ低地土の水田における水質浄化の例6)

 調査を行った約2haの水田は台地に続く砂地の低地上に位置し,土壌は粗粒質グライ低地土である。灌漑期間中,地下水位は地表付近にあり,ほとんど地下浸透はない。調査水田は約40枚の水田群からなり,上流側の水田から下流側に田越し潅漑が行われている。これらの水田では’ひとめぼれ’,’あきたこまち’などが栽培され,3箇所(A1,2,3)から潅漑水が流入して2箇所(B1,2)から流出している。流入水中の窒素の大半は硝酸態窒素で亜硝酸やアンモニア態窒素はわずかだった。

 水田への潅漑水のうち河川水が直接水田に流入しているA1,2の無機態窒素濃度は平均27.7mgL-1で,調査期間中の変動はわずかだった。いっぽう,別の水田を経由して調査水田に流入しているA3では平均23.0mgL-1で7月に一旦濃度が下がった後,次第に増加した。流出水(B1,2)の窒素濃度は5月下旬の代かき直後は10mgL-1を越えていたが,6月から7月中旬は10mgL-1以下に低下した。しかし,7月以降は次第に増加し,8月中~下旬には20mgL-1前後に達した(図1)。

 潅漑期間の99日間の調査水田での1haあたりの窒素収支は,流入水,降雨,施肥からの流入窒素量の合計が414kgNで,流出水,水稲吸収による流出窒素量の合計が180kgNとなり,流入水中の窒素量の75%にあたる234kgN(窒素除去速度:2.36kgNha-1d-1)が見かけ上除去された(図2)。

 潅漑期間中の調査水田における流出水中の硝酸態窒素の安定同位体比(δ15N値)は流入水に比べて増加した(表1)。δ15N値は脱窒が生じると増加することが知られている。水稲による吸収によってもこの値は増加するが,その割合はごく小さいと言われている。このため,本調査水田での234kgNの見かけの窒素除去は主として水田土壌中での脱窒によると考えられる。

4-2)灰色台地土の水田における水質浄化の例

 調査を行った0.1haの水田は台地の縁辺部に位置し,土壌は礫質灰色台地土で日浸透水量は平均約40mmと大きい。調査水田は6枚の水田群からなり,河川水および湧水由来の潅漑水は最上流部の水田の水口(R1)から流入し,田越し潅漑により最下流部の水田の水尻(R2)から流出する。これらの圃場では倒伏に強い’黄金晴’や’ふじの舞’が栽培され,元肥は施用されていない。流入水中の窒素の大半は硝酸態窒素で亜硝酸やアンモニア態窒素はわずかだった。

 調査期間中の流入水の無機態窒素濃度の平均値は21.0mgL-1で,濃度の変動幅は小さかった。流出水の無機態窒素濃度の平均値は17.9mgL-1で,濃度は特に7月中旬~8月中旬にかけて低下する。濃度低下期の水田の流出水(R2)の水温は30℃以上であった(図3)。

 調査水田における調査期間中の窒素収支は,流入水,降雨,穂肥からの流入窒素量の合計が1762kgNha-1で流出水,浸透漏水,水稲吸収による流出窒素量の合計が903kgNha-1であり,流入水中の窒素の50%にあたる859kgNha-1(窒素除去速度:7.10kgNha-1d-1)の窒素が見かけ上除去された(図4)。

 このようにグライ低地土,灰色台地土の水田ともに高い窒素除去能が確認された。グライ低地土と灰色台地土の水田とでは試験面積や単位面積あたりの流入水量などが異なるため直接的な比較は困難だが,見かけ上,単位面積あたりの窒素除去速度は灰色台地土の方が大きい。これは,灰色台地土ではグライ低地土に比べ潅漑期間中の浸透水量が大きく,地下浸透過程での脱窒による窒素除去量が大きいためと推察される。

5.休耕田の試験圃場における水質浄化の例

 前述のグライ低地土の水田に隣接した休耕田圃場に2つの試験区を設け,通年河川水を潅漑して窒素収支を調べた。試験区の一つはノビエ,ホタルイなどの雑草が生えたままの区(雑草区)で,もう一つは雑草を抜き最初の1年半の間に稲ワラを0.6kgm-2づつ3回鋤込み代かきした区(稲ワラ区)である。各試験区の面積は50㎡(幅2.5m×長さ20m)である。

 その結果,1年間の中でも4~9月の間と10~3月の間では水質・水量の変化に相違が見られた。両試験区とも日中の水温が20℃以上になる4~9月は流出水の窒素濃度は低かったが,水温が低下する10~3月では高かった(図5)。

 また,4~9月は地下水位が高いため浸透水量は低く抑えられたが10~3月は地下水位が低く浸透水量は大きかった。浸透水の窒素濃度は両区とも通年1mgL-1以下であった。このため雑草区を例に時期別の窒素除去量をみると4~9月には流入窒素の94%にあたる1120kgNha-1が,10~3月には58%にあたる1257kgNha-1が除去された(図6)。なお,雑草による年間の窒素吸収量は18kgNha-1とわずかであった。

 97年10月から98年9月にかけての年間平均の見かけの窒素除去量は,雑草区で2377kgNha-1(窒素除去速度:6.51kgNha-1d-1),稲ワラ区で2174kgNha-1(窒素除去速度:5.96kgNha-1d-1)であり稲ワラ鋤込みによる窒素浄化能の強化は認められなかった。両試験区における97年6月から99年9月までの約半年単位での見かけの窒素除去量は流入室素量にほぼ比例する(図7)。

 一方,流入窒素量に対する見かけの窒素除去量の割合は試験開始以来2年以上にわたり6割以上と高く維持された。なお,これらの試験区では短冊状の細長い区に潅漑水を一様に流したために水の流れが均一で,流れが不均ーになる実際の休耕田圃場に比べて窒素除去効率は高いと思われる。

6.台地周辺域における窒素収支の試算

 茶園から溶脱した窒素を含む河川水はその一部が台地周辺の水田で潅漑水として利用され,さらに下流側の砂地畑でも潅水として利用されている。そして,このような水田や砂地畑で利用されなかった茶園排水は河川を通じて直接海に流出する。以下に静岡県中部の牧ノ原台地周辺の水田における茶園排水中の余剰窒素の除去程度の試算結果6)を紹介する。

 ここでは牧ノ原台地の茶園面積を6540ha,台地周辺の水田面積を3810haとし,このうち茶園排水を潅漑利用している水田面積を1386haとした。また,茶園からの年間の溶脱窒素量を284kgha-1と仮定し,牧ノ原台地全体の茶園からは年間,1.86×10kg(6540ha×284kgha-1)の窒素が溶脱したと試算した。

 一方,水田での窒素除去能が1年間のうち潅漑期間の約100日間のみ働いたとし,4-1)で示したグライ土の水田での1年間に234kgha-1の窒素を除去するとの値を用いると,牧ノ原台地周辺の水田では1年間に0.32×10kg(1386ha×234kgha-1)の窒素が除去できると考えられる。すなわち現在,茶園からの溶脱窒素のうちの約17%が周辺の水田で除去されていると試算される(図8)。

 このように,茶園排水中の余剰窒素の除去という観点から見ると,現状では必ずしも水田が十分に活用されているとはいえない。このため,茶園排水中の窒素をより積極的に除去するためには,茶園排水を含まない農業用水に茶園排水を混合して窒素除去に関わる水田面積を増やす,現在は潅漑していない水稲非作付け期の水田にも茶園排水を含む水を入れて窒素除去期間を延長するなどの対策が有効である。

 また,未利用の休耕田も水質浄化の場であるとみなし,通年潅漑することも考えるべきであろう。ただし,水田,休耕田ともに水質浄化機能を高度に発現するための具体的な水管理方法などは明かではなく,今後の重要な検討課題である。

参考文献

1)田渕俊雄・末正奈緒希・高梨めぐみ:水田湛水による硝酸態窒素の除去試験.農土誌55,761-766(1987)

2)田渕俊雄・篠田鎮嗣・黒田久雄:休耕田を活用した窒素除去の試み.農土誌61,1123-1128(1993)

3)田渕俊雄・志村もと子・尾野充彦:休耕田における窒素除去試験の結果と実用性の検討.農土誌64,345-350(1996)

4)小川吉雄・酒井一:水田における水質浄化機能の解明.土肥誌56,1-9(1985)

5)糟谷真宏・小竹美恵子:地下水かんがいに由来する硝酸態窒素の水田における除去.土肥誌68,651-658(1997)

6)戸田任重・望月康秀・川西琢也・川島博之:静岡県牧ノ原における茶園-水田連鎖系による室素流出負荷低減効果の推定.土肥誌68,369-375(1997)

 

 

被覆肥料を用いたイチゴ高設ベッド栽培

栃木県農業試験場 環境技術部
土壌作物栄養研究室
技師 渡辺 修孝

1.はじめに

 イチゴは本県における主要農産物であり販売額は平成12年度で250億円を記録し,全国1位である。しかし,生産者の高齢化や,後継者不足のため生産面積は年々減少傾向にある。この要因のひとつに,低姿勢での作業が多く,身体への負担が大きいことがあげられ,新規就農者の敬遠および他作物への転換を招いている。

 このようなイチゴ栽培における作業環境の改善を目的として,多種類の高設ベッド栽培法が提案されている1)。本県においては,平成9年度から杉皮を主とした有機質培地を利用した高設ベッド栽培システムの試験を行っており,非循環式による閉鎖型養液栽培管理システムを開発し2),現在,普及を進めている。

 高設ベッド栽培導入には初期の導入コストが問題とされているが,本県方式で安価な資材を用いて装置の簡略化を図ることにより,高設ベッドの建設費に関しては低コスト化が実現された。しかし,給液装置に関しては,低コスト化が図れず,コスト負担が普及の妨げとなっている。また,養液栽培用の肥料は土耕で用いられている一般肥料に比較すると割高であり,ランニングコストも負担となる。また,給液管理にしても既に多くの試験研究がなされているが,実際には天候の変化や原水の質によって,個々の生産者の判断で調節しなければならない。

 そこで,イチゴ高設ベッド栽培におけるコストの軽減および給液管理の簡略化を目的として,培養液の代わりに被覆肥料(肥効調節型肥料)を用いたイチゴ高設ベッド栽培方法を検討した。

2.材料および試験方法

 品種は”とちおとめ”を供試し,高設ベッドは県内で普及が進められている閉鎖型養液管理システムを使用した。この方式は,杉皮・パーライト(7:3)混合培地を使用し,培養液はドリップチューブから給液され,廃液はベッド下に貯留され,浸潤性シート(不織布)を通して毛管給液により再利用され,廃液を出さない閉鎖型の養液栽培システムであることが特徴である。

 被覆肥料区は,施肥を定植時に株直下におこない,ロングトータル140日溶出タイプ(チッソ旭)を窒素成分で1株あたり2.0~3.0g相当,カルシウム,マグネシウムおよび微量要素の供給のため,ようりんを5g/株施用し,収穫終了時まで潅水のみで管理した。対照として培養液管理区を設け,培養液管理は,大塚A処方の培養液組成で定植から頂花房開花時までEC1.0dS/m,それ以降はEC1.2dS/mで管理した(図1,表1)。定植は,平成11年9月13日におこない,株間22cmの千鳥植えとし,栽植密度は970株/aとした。

 潅水および培養液の給液は,ドリップチューブを用い,ベッド下の貯留液の深さが5cm以下となるように潅水量を調整した。1株あたりの1日の潅水量は,被覆肥料区,培養液管理区ともに同様で,定植から3月までは120ml/株(30ml×4回)で,4月以降は150ml/株(30ml×5回)とした。11月からベッド内の温湯管および温風ダクトによる加温をおこない,培地内温度は昼夜間通して15℃以上で管理した。

 培地溶液の分析は,土壌溶液採取用の素焼きカップを用い,株間の栽培ベッド中央部から採液したものを供した。

3.試験結果および考察

(1)生育および収量

 被覆肥料区と培養液管理区を比較したところ,生育は,被覆肥料区で全般的に葉柄長が長く,旺盛であり,12月までの可販果収量も,被覆肥料区が全般的に高かった。しかし,被覆肥料区は,頂花房の開花,収穫期ともに培養液管理区と同じであったが,1次腋花房の開花,収穫期が遅くなる傾向がみられた。また,一果重は被覆肥料区が全般的に高かったが,頂花房の着果で乱形果が多く観察された。

 また,4月以降の可販果収量は,培養液管理区が優れていたが,全期間の可販果収量は被覆肥料N2.0g/株区がもっとも良好であり,N2.5g/株区も培養液管理区と同等だった。(表2,3)。被覆肥料区の根の状態は,肥料に接した部分のみ褐変がみられたが,それを包むように,培地内に正常な根が発達した。

(2)栽培バッド内の養分状態

 培地溶液のECは被覆肥料N3.0g/株区で11月以降に2.0dS/m以上に上昇し,pHは被覆肥料N2.5およびN3.0g/株区で4.0付近まで低下した。1~2月,ECの上昇が原因と考えられるチップバーンなどの生理障害が,被覆肥料N3.0g/株区で観察された。このため,1月中旬に被覆肥料N2.5およびN3.0g/株区のベッド下の貯留液を排出して新たに水を加えることで貯留液を水に置換し,ECの低下を図ったところ,その後は安定した数値で推移した(図2,3)。

 ロングトータルに含まれる窒素はアンモニア態と硝酸態が,ほぼ同量含まれるが培地溶液の無機態窒素は主に硝酸態窒素として検出され,アンモニア態窒素は微量だった。肥料から溶出したアンモニア態窒素は,有機質培地中で速やかに硝化されるものと考えられた。

 図4に被覆肥料N3.0g/株区における培地溶液の各成分濃度の推移を示した。とくに11月以降の硝酸態窒素およびカルシウムの上昇が顕著である。被覆肥料区では,肥料から溶出された無機態窒素が硝酸態窒素として蓄積されpHの低下を招き,さらに硝酸態窒素の高濃度化が,ようりんからのカルシウム溶出を促し,EC上昇が進むことが考えられた。

(3)肥料の溶出および窒素収支

 被覆肥料の溶出率は,収穫終了時までに85%以上であり,溶出速度は,初期から後半にかけて除々に低下し,4月以降再び上昇した(図5)。この結果から,被覆肥料区および培養液管理区の,施肥による窒素供給量と作物体の全窒素吸収量を比較したところ,被覆肥料区の窒素利用率が高いことが示唆された(表4)。被覆肥料N2.0g/株区の窒素吸収量が供給量を上回ったのは,原水由来の硝酸態窒素および有機質培地の分解に伴う窒素によるものと考えられた。

 被覆肥料N2.0g/株区は,培地溶液ECが液肥管理区より低いにもかかわらず,初期における生育が旺盛で、12月までの収量も高く,さらに窒素過多と推察される頂花房の乱形果の多発や,1次腋花房開花の遅れが見られた。これは,根圏域に接した肥料から溶出した養分は速やかに植物に吸収され,培地溶液のEC上昇につながらなかったためであり,結果として被覆肥料区の窒素利用率が高くなったことが考えられた。

 以上のことから本方式でロングトータル140日タイプを用いて高設ベッド栽培をおこなう場合の最適な施肥量は,4月以降の収量低下を防ぎ,かつ,ECの上昇およびpHの低下を防ぐため,窒素2.0~2.5g/株程度であると考えられた。

4.さいごに

 本研究でイチゴ高設ベッド栽培において被覆肥料を用いることで培養液管理のものと同様の収量が得られることが確認された。このような肥効調節型肥料を利用した少量培地耕の研究は,イチゴ3,4),トマト5,6)やキュウリ6)などで行われている。この方式は高額な給液装置を必要とせず,より簡易なタイマー制御機能だけがついた潅水装置を用いれば導入可能であり,より低コストでの高設ベッド栽培を導入することができる。表5に本方式の初年度導入費用の概算を示した。

 また本方式では栽培期間中,廃液が排出されず,窒素の利用率が高いことから,より環境にやさしい高設ベッド栽培が実現できる。現在,残された課題としては,以下のようなことがあげられ試験を継続している。

①連作の影響

 本農試で培養液管理については4作目まで試験継続中であるが,被覆肥料を用いても連作による影響がないことを実証する必要がある。

②植物の生育に適合した肥料溶出パターン

 被覆肥料区における頂花房の乱形果や4月以降の収量低下は,植物生育と肥料溶出パターンの不適合によって起こると考えられる。このため異なる溶出パターンをもつ肥料の配合が必要であろう。また,カルシウムおよびマグネシウムは,適当な肥効調節型肥料がないため,ようりんを使用したが,施肥作業の単純化をはかるためにも必要とされる無機成分が全て含まれる被覆肥料の開発が待たれる。

5.参照文献

1)中島規子(1999)野菜園芸技術,6:60-65

2)植木正明(1999)園芸学会雑誌,68,別 1:233

3)土井元章ら(1988)生物環境調節,26(3):101-106

4)岡野剛健(1999)野菜園芸技術,6:49-54

5)今井秀夫(1999)農業と科学,11:1-5

6)岡本將宏ら(1994)滋賀農試研報,35:31-42